アラビア語のすすめ(2)

前回はアラビア語によって多くのものに出会える言語だ、という話で締めくくっていた。今回はそれがなぜなのか、私なりの考えを4点まとめてみたい。

1 現代よく学ばれる「外国語」の中で最も古い言語の一つ

アラビア語が文字で書かれたのは紀元2世紀より遡ることが確認されている。4世紀に書かれたアラビア語碑文は、文字こそ古風で専門家でないと読めないが、中身を見れば現代のメディアなどで使われている書き言葉のアラビア語――「正則アラビア語」、アラビア語で「フスハー」(اللغة العربية الفصحى)と呼ばれる――とそれほどは違わない。

コーランアラビア語は7世紀(日本でいうと奈良時代)のアラビア語を反映しているといわれるが、現代の正則アラビア語の知識+α ぐらいで、とりあえずは十分理解できる。あるいは、コーランは現代に生きた聖典であり、その言葉自体が日常に溶け込んでいるので、「古めかしい」という印象はさらに薄いといえるかもしれない。

中東史には、おおまかにイスラームの出現をもって「中東古代の終焉」という考え方があるが、いわばアラビア語は古代と現代を繋ぐ言語であるといえる。例えば、アラビア語の月名、例えば四月をニーサーン(نيسان)などというのはバビロニア暦起源であり、楔形文字で書かれていたアッカド語での名称(nisānu/nisannu 𒁈)――世界で最初に文字をもった言語の一つであるシュメール語の nisag/nesag「最初」が語源とされる――を残している。

ほかにも、正則アラビア語には中期ペルシャ語ギリシャ語・アラム語など、イスラム以前に中東を割拠した古代帝国の公用語の単語がたくさん残っているので、時空を超えた「出会い」のきっかけには事欠かない。

アラビア語は一度も死に絶えることなく、かつあまり形をかえずに古代から生き続けている言語、という意味では、現代世界で学ばれるどの「外国語」よりも古い歴史をもっている。ただし、後で書くことになるが、正則アラビア語はその後の歴史で「話し言葉」としては用いられなくなってしまった。

古い歴史をもつ言語といえばペルシア語も忘れてはいけない。その歴史は古代・中期・新ペルシア語に大別されるが、新ペルシア語は恐らく9世紀から一貫してほぼ同じ言葉が話されている点で、世界一古い話し言葉の一つかもしれない。ただ、2~7世紀に書かれた中期ペルシア語は現代語の知識だけでは太刀打ちできない。

あまり知られていないが(残された記録も現代での使用もやや限定的だ)、古くからそんなに変わっていない言語としてはヌビア語もある。古ヌビア語は8世紀から一応記録があるが、文法的には現代エジプトで話されるノビーン (Nobiin) 方言とそれほどの違いはないようだ。

それから、ヘブライ語はもちろんアラビア語とは桁違いに古い歴史をもつし、古代とさほど変わらない形で現在話される言語でもある。ただ、こちらはアラビア語やペルシア語とは違い、中世には「死滅」したといってよいほどその使用は限られたし、自他ともに認めるとおり、「リバイバルされた言語」としての側面が見過ごせない。

どれが一番を喧々諤々争おうというのではなく、中東は「世界一古い言語」の宝庫で、その一つであるアラビア語は時空を超えるための手っ取り早い鍵、ということだ。

2 皆に平等に難しい、世界宗教の「聖なる言語」

アラビア語はいわずと知れたイスラームの「聖なる言語」だが、世界のムスリム人口は2021年現在、19億人近いとも推定される。この数は全世界の英語話者数の推計をやや超える。大げさだが、言い方次第では、現代世界で英語に拮抗しうる唯一の言語かもしれない。

歴史上、イスラーム世界には、母語ではないがアラビア語はよくできる知識人、特に宗教知識人は数多くいた。その意味で、アラビア語は1400年以上、「イスラーム共同体」(ウンマ)の共通語であり続けてきた。近代においても、世界各地のムスリム知識人はアラビア語でコミュニケーションをとっていた。例えばアフガーニーやマウドゥーディーのような南アジア出身のアラビア語母語話者の思想家たちが世界的なイスラーム主義の思想的に与えた影響は測りえないし、アマドゥ・バンバやウスマーン・ダン・フォディオのような西アフリカ社会に大きな影響を与えたイスラーム改革者たちも、アラビア語著作を残している。

もちろん今もアラビア語を話せるちょっとした知識人というのは世界各地にいる。

例えばウガンダの某モスクを訪れた時のこと。観光ガイドにはそのモスクの塔(ミナレット)に登れば町が見渡せるがいくらか料金が要るとのことだった。しかし、階下に居た長老がおもむろにアラビア語で「何しに来たのか?」というので、「ミナレットに登りたいと思いまして」とアラビア語で返すと、「ようこそ、どうぞ!」とタダで上げてくれた。身勝手な解釈かもしれないが、翁にとっては、アラビア語イスラームに対する敬意を共有している見慣れないやつに会った、ということが素直に嬉しかったのかもしれない。

もつろん、全てのムスリムアラビア語を話すわけではない。アラビア語は外国語として学ぶには少し難しい言語なので、その習得は容易ではないのだ。一方で、アラビア語を一言も知らないムスリムは、恐らく一人もいない。イスラームの礼拝は全てアラビア語で行うので、皆ある程度の分量のアラビア語を諳んじているのだ。学校やモスクで学んだことがある人は少なくないし、どれほど努力するかしないかはさておき、大抵のムスリムは「アラビア語が話せればカッコいいのにな」以上には思っている。

言い換えれば「アラビア語って難しいよね」と、あこがれや挫折感を共有できる人が何億人もいるということでもある。こんな言語はたぶん世界的に類をみないだろう。

そしてこの挫折感はアラビア語母語話者」に対しても平等だ。彼らはコーランと同じアラビア語を話しているわけではないし、やはり一生懸命勉強しないといけないのだ。

3 中世以来「三大陸を結ぶ世界語」として機能してきた

アラビア語が「世界語」であるのは、宗教的な意味でだけではない。アラビア語は、地中海交易、インド洋交易、サハラ交易、ナイル交易の言語でもあった。算用数字を「アラビア数字」というのは由がないわけではない。数字はインドの発明だが、それを旧大陸に広めたのはイスラーム帝国を縦横に旅したアラビア語話者の商人や学者たちだった。それと同時に、アラビア語自体も「共通語」として広まっていた。

大航海時代イベリア半島の商人たちはアフリカ大陸を一回りしてインド洋へと到達したが、その旅で彼らは何語でコミュニケーションをとっていたのだろうか。もちろん、それはアラビア語だった。グローバル化」が大航海時代に始まったとされる考え方もあるが、その直前に世界を繋いでいたのはアラビア語だったのだ。

時代は下り、19世紀末の東アフリカでは、イギリス人が南スーダン出身のアフリカ人兵士を雇って「植民地軍」を作った。もちろん彼らは英語を話さない。結果的に、イギリス人将校たちは彼らの共通語であったアラビア語を学び、アラビア語で命令を下すことになった。今もイギリスの国立文書館には、そんなイギリス兵の「アラビア語試験・成績表」が残っている。アフリカ中部のチャドでも、同じ時期、フランス人が似たようなことをしていたらしい。

そんな、アラビア語の「世界語」としての側面を感じやすいのは、ムスリムが多数派を占める地域の言語に無数に入っているアラビア語借用語だろう。

東アジアで例えると、朝鮮語/韓国語でも「微妙な三角関係」が似た発音だとか、トイレットペーパーを中国語で「手紙」と書くらしいとか、そういう愉快な現象が東南アジアからアフリカまで見られるわけだ。アラビア語さえ知っていれば、インドネシア語を学んでもスワヒリ語を学んでも、既に知っている単語が多いので、最初のハードルが低い。

例えばインドネシアの古い流行歌「ブンガワン・ソロ」(Bengawan Solo)を聞いていると、riwayat「故事」(رواية)、insani「人間」(إنسان)、musim「季節」(موسم)、akhir「末」(آخر)、kaum「人々」(قوم)のような明らかにアラビア語起源の単語が聞こえてくる。

スワヒリ語habari muhimu kuhusu homa ya Ebola「エボラ熱に関する重要なニュース」の habari「ニュース」(خبر)、muhimu「重要な」(مهمّ)、-husu「関する」(خصّ)、homa「熱」(حمّى)、asante kwa kusaidia Idara ya Afya ya Umma ya Philadelphiaフィラデルフィア・コミュニティ保健局へのご協力ありがとうございます」なら、asante「多謝」(أحسنت よくできた)、-saidia「手伝う」(ساعد)、idara「運営」(إدارة)、afya「健康」(عافية)、umma「共同体」(أمّة)はアラビア語起源だ。

4 誇り高き「言文不一致」

最後になるが、アラビア語が「出会い」の言語であると私が考える最大の理由は、ダイグロシア(diglossia)と呼ばれるその社会言語学的特徴だ。

先に述べたとおり、正則アラビア語は古くから世界的に用いられた、「最強」の言語の一つだが、唯一の弱点とされるのは、あくまで書き言葉であり、「母語話者」が存在しないことだ。

アラビア語母語話者」と言われる人々が話すのは、別の「言語」といっても過言でないほどの地域差(ないし集団差)がある「口語アラビア語諸方言」(لهجات العربيّة العامّيّة)――アラビア語ではアーンミーヤ「大衆語」ないしダーリジャ「普通語」と呼ばれる――だ。そして、これらの方言間の差よりも文語と口語の差の方がある意味では大きい。例えば、方言同士の違いをフランス語・スペイン語ポルトガル語で喩えると、正則語はラテン語に当たるといってもいいだろう。「ダイグロシア」とは、こういう二つの言語変種の棲み分けを指す社会言語学の専門用語だ。

口語アラビア語諸方言は、いわゆる「文字で書かれる言語」ではないので、あくまでオーラル・コミュニケーションにしか用いられない。もちろんSNSやメールなど個人的な文脈や、試みとして「文字で書いてみよう」という場面では「文字で書かれる」こともあるが、ふつう権威ある「口語標準語」や「方言用正書法」があるわけではない。

近代的なアラビア語教育の現場では、この問題が常に教員・学習者を悩ませてきた。もちろん、各種方言の教科書も編まれてきたし、それを用いた授業も行われてきた。しかし、標準語も正書法もないため、教科書ごとに表記の仕方や文法の説明方法が違うというのが当たり前だ。しかも、物理的には1授業で1方言、あるいは騙し騙し1授業で正則語と1方言(それでも混乱は避けられない)が精いっぱいだ。いずれにせよ1つの方言を選ばないといけないが、標準的な方言、権威ある方言というのが存在しないので、その選択は政治的になるか、教員の専門に引きずられてしまう。

なお、「ポピュラー文化の影響でエジプト方言が最も広く通じる」というまことしやかな噂も耳にはするが、少なくとも私の経験とは合わない。そもそも、アラビア語は多様性が売りなのだから、とりあえず皆が同じ方言を学べばよいという発想は、「角を矯めて牛を殺す」というやつだ。

結局、「ふつうにネイティブとアラビア語が話したい」という向きは、現地に飛び込み、たくさんの友達を作り、長時間日常を共にしつつコミュニケーションを深め、かつ自分なりに整理して理解しないと、目標は達成されない。間違うのが恥ずかしいといって、こっそり一人で勉強することが許されないのだ。

これはもはや、人文系研究者が行う「参与観察」のようなもので、きわめて創造的な営みだ。どうしても現地に行けないなら、ゴリゴリの論文や学術書を読んで理解を深めることもできる――いずれにしても、単なる「語学」の枠を外れて、「学問」の世界に誘われてしまう、最強のアクティブ・ラーニングだ。

アラビア語教員・学習者は、この事実を「障害」と捉えすぎてきたかもしれない。人とコミュニケーションするのが面倒で、教室でだけ勉強する「外国語会話の授業」なんてはなから意味はないのだ。言い換えれば、アラビア語のダイグロシアは学習者を「応援」する装置でもある。

ヨーロッパでは近代に「民族自決」とともに「国語の言文一致」が行われ、日本を含む多くのアジア諸国もそれに倣った。アラブ地域にもそうした考えは入ってきたが、彼らは断固としてそれを拒み、逆にダイグロシアを保ちつつ正則アラビア語の近代化改革を行った。西洋とは違う、オルタナティブな形での「近代的な言語のあり方」を発明したと言ってもいいだろう。明治期日本の国語改革でも、「非効率」とさんざん批判されつつ、漢字を棄てるという選択肢は採られなかったが、それにも通じるものがあると思う。私はそんな近代の「アラブ人」たちに拍手を送りたい。