アフリカ諸語研究のすすめ

これまで2度にわたって「アラビア語のすすめ」を書いた。日本ではアラビア語に携わる人、特に言語学的関心から研究を行う人が極めて少ないし、そういう人はいつの時代も必要な人材だ。

だが心のどこかで、アラビア語なんて別にどうでもいいと思っている。アラビア語は需要のある重要な言語のだが、そんなに「面白い言語」ではない。まず文法は、複雑ではあるが、西欧諸語と全然違うわけではない。一般社会ではアラビア語は「珍しい、かわった言語」かもしれないが、専門家たちの世界ではありふれた言語のように思える(よくよく考えると非常に珍しい特徴もないわけではない)。

どうせ「変な言語」ならそれを突き詰めるのもよいと考えているので、ここではアラビア語を学んだ人が進むべき道の一つとして、フィールド調査によるアフリカ言語学(アフリカ諸語研究)をお勧めしたい。ここで4つばかり、そうすべき消極的・積極的理由を挙げる。(結果的にアフリカ言語学以外をディスカレッジしますが、アフリカ言語学のお寒い状況に免じて広い心でお読みください。)

1.アラブ世界には言語が少なくレッド・オーシャン

中東は世界的に見て言語の数がすごく少ないEthnologue 第 23 版では、イランでは78言語、インドでは447言語、インドネシアでは710言語が話される。これに対し、22ヶ国が加盟するアラブ連盟の地理的領域を「アラブ世界」とすると、アラブ世界で話されるのは198言語ほどだ。アラブ連盟なので、ジブチソマリアコモロももちろん入っているし、実際198言語のうち多くはアラビア語方言だ。

変なやり方だが、100万㎢あたりに換算すると、イランは約47言語、インドは約136言語、インドネシアは約374言語、そしてアラブ世界は約15言語となる(人口で割っても似た感じだが、変動が大きいので省略)。ざっくりした感覚でいうと、シベリアやカナダなど、極北世界の言語分布数に近い。もちろんアラブ世界には広大な砂漠や、アラビア語という超強力な言語があるためだが、はっきりいって、言語好きにはあまり魅力のない地域だ。

中東と言っても、イランやトルコ、イスラエルは意外なほど言語が豊富だし、ユーラシアは広い。しかし、アラビア語だけ知っているという人がユーラシア世界の言語研究を専門にするのはかなり厳しい。少なくとも専門レベルでペルシャ語トルコ語ヘブライ語を知っていないと、この地域を専門にしている研究者に太刀打ちできない。それが絶対悪いわけではないが、アラビア語から始めると少し遠回りだ。

アジア研究のレベルは、国内外を問わず非常に高いと思う。私がそんな気がしているだけかもしれないが、残念ながら(エジプト語アッカド語、シュメール語などの古代語も含め)ユーラシア言語研究は、血で血を洗う戦が行われているレッド・オーシャンだ。(もちろん私の主観の誇張に過ぎない。)

一方で、アフリカには言語の数が多いわりに、スワヒリ語、ハウサ語、アムハラ語などごく少数の言語を除けば、ユーラシアの状況に比べてそれほど重厚な研究蓄積がない。さきにアラブ世界で198言語が話されると書いたが、うち50言語ぐらいはスーダンで話されている。スーダンはアフリカの入り口だといえるかもしれない。

2.アラビア語と似ていて、しかも研究が進んでいない言語が多い

アラビア語アフロ・アジア語族(Afroasiatic phylum)に属するセム諸語(Semitic languages)の一つであると言われる。有名どころでいうと、旧約聖書原典の言語であるヘブライ語や、古代中東の共通語としても「イエス・キリスト母語」としてもしられるアラム語(実態としてはアラム諸語といってもよい)、楔形文字で書かれた古代メソポタミアアッカド語などがセム語のグループに属している。ヒエログリフエジプト語、そしてその直接の子孫でありコプト正教の典礼言語あるコプト語も、セム語ではないが、アフロ・アジア語族のメンバーだ。

これらの言語は歴史的にも魅力ある言語であり、アラビア語ともよく似ているのでとっつきやすい。ゼロから学ぶのではなく、至る所でアラビア語と一緒だ!」と実感できて楽しいこと請け合いだ。しかし、だからこそ、極めて豊富に研究が行われてきた。一番面白いところは昔の偉い西側の学者たちが書きつくしているといっても過言ではないので、ものすごい量の先行研究を読まないといけないし、独創的で目立った研究というのは流石にやりにくい。21世紀の文脈で「成果」を求められる現代の研究者にとって、少しコスパが悪すぎるように思う。

一方で、アフリカ側にも多くのセム諸語やアフロ・アジア語族の諸言語が話されている。ゲエズ語 (ግዕዝ;ギイズかグウズの方が実際の伝統音には近い) 以外、ほとんどは歴史的には「無文字言語」であることが多く、かつて書かれたことがある場合、その多くはアラビア文字(一般に「アジャミー文字」ともいう)によるものだ。

例えば、エチオピアケニアでオロモ語という言語が話されている。4000万人近いともいわれる話者をもつアフリカ最大級の言語で、政治的にも歴史的にも重要だが、まともな教科書はおろか、短めの文法スケッチを除いて、参照文法といえるような規模の文法書はほぼ存在しない。語順こそ日本語に似てSOVで、比較的簡単な言語だと言われるが、代名詞や動詞活用などはアラビア語との類似が明らかだ。放出音や入破音などの珍しい音も小気味いい。エチオピアあたりで数年フィールドワークして、博士論文としてオロモ語の一方言の文法書を書けば「(オロモ語で)世界トップレベルの研究者」になるのも夢ではないかもしれない。

オロモ語でなくとも、アラビア語を学んだ人が言語学的テーマとするにふさわしい「穴場」はアフリカにはごまんとある。特にエチオピア周辺のクシ諸語やエチオピアセム諸語、ナイジェリア・カメルーン・チャド周辺のチャド諸語やアラビア語方言はお勧めだ。エチオピアのアフロ・アジア諸語としてはオモ諸語もある。一見してもアラビア語とはほとんど何も似ていないので、アラビア語の素養を直接活かすのは難しいかもしれないが、再構可能な世界最古の言語がアフロ・アジア祖語であるとするなら、その研究の重要性は過小評価できない。

北アフリカベルベル諸語も穴場だったが、近年は西欧で高いレベルの研究が進んできている。研究の深化といえば聞こえはいいが、近い将来には熾烈な競争が繰り広げられてしまうのかもしれない。

私の場合は研究テーマにアラビア語クレオールを選んだ。東アフリカで話されていて、とにかく「アラビア語っぽくないアラビア語」なのでとても面白いし、研究の意義も高いのでコストパフォーマンスも悪くはなかったと思う。しかし、同時期に西欧で「ライバル」的な人が現れていたので、(研究の質はさておき)立地的に後手に回ってしまったかのような感がある。こちらも黙っているわけではないので、向こうとしても嫌な気持ちをもっていてもおかしくない。

学生の頃、学問においてそんな「配慮」などすべきでないと息巻いていたし、今も権威主義的な研究者に屈するつもりはないが、しんどいので他人に勧めたくはない。誰もやっていないことを穏やかに研究できるなら、それに越したことはない。他の研究者の批判のための時間は、自分の自由な創造のための時間を削るのでもったいない。

3.アラビア語が意外と役立つ

以前にも書いたが、南部アフリカやギニア湾岸などの一部を除き、多くのアフリカ諸語には直接・間接にアラビア語からの影響を受けていることが多いし、ムスリムも多いので、アフリカでは意外なほどアラビア語アラビア文字を目にする機会が多い。

アフロ・アジア諸語というのは比較言語学的なテーマとしてアラビア語と結びつきやすいが、それ以外のナイル・サハラ語族やニジェール・コンゴ語族の諸言語は、接触言語学的なテーマとしてアラビア語と結びつけることができる。

最近私が研究をはじめたベルタ語というナイル・サハラ語族の言語があるが、もうこれでもかというぐらいアラビア語化されているし、ベルタ語話者の話すアラビア語はこれでもかというぐらいベルタ語化されている。そもそも、彼らは普段自分達のコミュニティ外ではアラビア語をほとんど使わないので、ベルタ語かアラビア語どっちかでいいと思うのだが、二つの言語を少なくとも2世紀以上の間ずっと話し続けている(加えてアムハラ語とオロモ語も話す)。こういう人々を研究するには、間違いなくアラビア語の知識が必要だ。そして、ベルタ語に限らず、西アフリカからソマリアにかけてはこういう状況にある言語は非常に多い。

こういう人たちにとっての「アラビア語」を研究することは、ひいてはアラビア語研究に革新をもたらす可能性もある。これまでアラビア語は「アラブ」という民族を定義する基準かのように論じられる傾向があったが、「多民族共存空間としてのアラビア語世界」を創造的に想像するためには、アフリカ研究は大いに役立つ。

個人的には別にアラビア語と全然関係ない地域にものことも学びたい(というか学んで楽しい)し、本来アラビア語影響圏にこだわる発想はないのだが、自分のアラビア語をメンテナンスするためのモチベーションになっている。多少は娑婆の理に義理立てするのも悪くはない。

4.現地社会からの関心が強い

多くのアフリカ社会では、自民族の言語や文化にものすごく誇りや愛着を持っているようだ。意外なほど研究者のニーズと、現地社会からの研究者へのニーズが思ったより一致しているように感じることが多い。

歴史的なりゆきのため、ユーラシアには言語とナショナリズムが非常に強く結びついている社会が多いようだ。ユーラシア側を対象にしている少数言語研究者が時々語ることがあるが、少数言語研究が反体制的な政治活動とみなされたり、話者自身が自分の言語への誇りを失っていることさえあるらしい。価値観は時代や政情により変動するとは思うが、切ないではないか。今のところ、私はアフリカではそういう経験をしていないので、本当にありがたいことだと思っている。

場合によっては、研究者が特定の集団の主張に「お墨付き」を与えるかのような形で、学問的成果がある意味で政治的に利用されることや、安易に開発主義に加担するおそれがあることにもなるので、違和感をもつこともあるのだと思うが、その是非はフィールドに行く前に机の上で心配するのではなく、フィールドで感じて考えることを勧めたい。

学問というものは誰かのためにやるものではなく、あくまで知的好奇心に基づくのが健全だとは思うが、一人で誰からも応援されることなく研究の道を進むのは辛い。正直なところ、どこで何度研究発表をしても、自分の研究の話を、関心をもって聞いてもらえたことがないのではないかとさえ思う。そういう時、現地の友人の顔でも思い浮かべて再奮起できるのは純粋に幸せだ。

ただ、言語学は基本的には無力なので、本当に研究成果を誰かの役立てたい場合には応用のための技術についても相当考える必要がある。そういう意味では、現地社会との「絡み」は、単に「学問」を突き詰めることに慢心せず、発想を柔軟にすることにもつながるのかもしれない。